2011年9月10日土曜日

自分の命

今月16日で骨髄移植から2年が経過します。

また当日あたりにそのことについては改めて書こうと思いますが、生きるということについて再確認するためにも、自分にとって死とはなんなのか考えながら書いてみたいと思います。


白血病やがんなどの重大な病気になれば、その時特に自分の「死」について考えてしまう。

一番鋭く刺さるのは、宣告された時である。

その時ショックに感じることはいくつかあるだろうが、何が一番ショックかというと「自分は死ぬのか」ということだろう。

ただ、僕にとってはそれは一番ではなかった。どちらかというと、これから先しばらく病院に自分を縛られてしまうことの方が怖かった。

「がん=死の可能性」ではあったが、「がん=死」とは感じていなかった。

それは自分が強いのか、ただ単に自分の命が大切と思っていなかったのか。

おそらくどちらでもない。僕は強いわけでもないし、自分の命を失うことは怖いと感じないことは絶対にない。

ではなぜだろうか。それはおそらく父親ががんになったことは大きく影響している。


僕が中学3年だった5年前の受験シーズン。父親はまだ40代半ばであったが、すい臓がんを宣告された。

手術は十数時間に及ぶものであったが、数年の抗がん剤投与を経て現在復職している。

実は手術から戻ってくるのを病院の待合室で待っていたのだが、その時僕は父ががんであるとは知らなかった。

知った時期というのは明確にはわからないが、おそらく半年~一年以上後の話だろう。

当時は病気についてはぼんやりとは聞かされていたが、明確にがんとは言っていなかったし、僕は受験を控えていたせいか深く聞くことはなかった。

ぼんやりと聞かされていたことであまりその時のショックがなかったのと、父が今も元気に生きているということはとても大きな影響を与えたと思う。


また話そうか迷ったが、友人や知人の死があったのも影響しているのかもしれない。

友人が亡くなるのは当然ショックであるが、同時に感じるのは「人生何があるか本当にわからない」ということである。

がんは死ぬ可能性が高まるのかもしれないが、生きる可能性もある。

逆にがんでなくても人にはいつだって死ぬ可能性はある。

知人がブログに書いていたが、「死を迎えるときに、自分が幸せだったと思って死を迎えたい」というのはとても重要なことではないだろうか。

このように考えてみると、生きるとは、「死ぬ時に幸せだったと感じるまでの道程」なのではないだろうか。

「生きるとはなんなのか」と考えてしまえば、同じ病気の戦友やいろいろな人が亡くなる度に「なぜ自分が生きているのだろうか」「自分は彼らの代わりに生きるべきだったのか」とマイナスに考えることは僕にもよくある。

しかし、「死」ということを考えたときにこそ、生きることの価値を見いだせないだろうか。

当たり前なことなんてない。一日一日が奇跡である。

幸せだったと感じるために、日々後悔しない生き方をしたい。

2 件のコメント:

  1. そうなんだよw死ぬときに何ができたのか己の役割をまっとうできたのかをきっと考えるんだと俺は思ってるwその思い返す一瞬で人生が幸せだったのか後悔を残すのかが決まるんじゃないかな?それはわからないけど…wだから俺は俺が世の中から何を求められてるのかを知ってそれを全うすることが幸せなんだと思う。日々後悔しない生き方をしたいねwお互い頑張ろうwそして40歳50歳60歳お互いの人生について雰囲気のある居酒屋でお酒でも飲みながらかたろうぜ!!

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  2. コメントありがとう!
    まぁ日々後悔しない生き方っていうのは理想で、間違った方向に行ったり無駄になってしまうこともいっぱいある。矛盾するかもしれないけど、その無駄も無駄でなかったと思えるように生きたいね。
    とりあえず帰国したら飲みに行こうw

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